調子がいいときのワナ
書きたい気持ちが止まらない。
何時間でもパソコンに座っていられる感じです。
ここ最近絶好調であります。
絶好調なときは、自分のコントロールがきいていないときがあるそうです。
例えば、薬が効きすぎてHighになり過ぎると、その後の落ち込みも大きくなるので、薬を調節します。
ものごとには必ずリズムがあるからです。
朝、昼、夜、
春夏秋冬
潮の満ち引き
月の満ち欠け
成功と失敗
ハレの日とヶの日
・・・
動植物と共生する生活は、まさに自然のリズムと調和していくので心地よく感じられます。
自然が一番、導かれるままに
いいことばかりに焦点が定まり、まさに「引き寄せの法則」だと思うが如く次々と良いことが繋がっていく。
でも、それって本当によいことでしょうか。
疑う気持ちをもつと、共鳴や引き寄せの妨げになるので基本的には自然や直感に従えばいいと思いますが、
大事なのはちゃんと自分をもっているかということ。
何でもかんでも身を委ねればいいってわけではありません。
ものごとは本人の思いこみ次第なので、実は自分に悪い影響を与えているのに気づかず、「よい」と思いこんでしまう。
例えば、
自分が学びたいと思っていたら、目の前に次々とそのセミナーの案内が目に留まってきた。しかし、気づけばセミナージプシーになっていた。
お金は回るものだからと、使う程返ってくると信じて使い過ぎてしまう。
相手のために尽くせば自分に返ってくると思っていたけど、結果として相手に悪いことをしてしまった。
・・・。
恋は盲目です(笑)
あなたがとっている行動は、自分の目的や描いた未来のためからズレていませんか。
占い、ヒーラー、著書、先生、先輩から聞いた話に依存せず、最終決定を自分でしていますか。
一人で抱え込まず、信頼している人、大切な人に話をしていますか。
これは今、私自身に言い聞かせています。
ブログを始めて、いいことばかりが起こっているように書いていますが、悪いことも起こっているし、頭痛は慢性的で最近、薬を強くしてもらいました。
悪いことから目を背けるのではなく、それもちゃんと受け入れる。
必要ないこと(頭痛で悩むこと、誹謗中傷に耳を傾けること等)を相手にしないことと、逃げることは違います。
いいことだけが起こっているときは要注意。
調子に載って色々やりたくなるところですが、
一点集中。
私は一人、できることは限られている。
ボランティアをもっとする
体調を治す
自分を磨く
生活収入を得る
自分の事業を起こす
ブログを書き続ける
どれもやろうとして中途半端な自分がまさにいました。。。
でもやりたいことや繋がりがどんどん増えてきちゃっている。
私は一人、できることは限られている。
人に聞けるのも才能
上手に真似るのも才能
そんな人と繋がることも才能
私はもっともっと助けてもらおうと思います。
で、なんと最近初めてこのブログと現実の両方で繋がる方と出会いました。
なんだかときめいちゃいますね(笑)
改めて、今の時代、インターネット空間は非現実世界ではない
と実感します。
ブログで解雇とかもあるし
子どももインターネット上の社会をもつ
上手に使っていきたいですね☆
布オムツ、布パンツ保育が子どもにとっていい理由
こんにちは。
最近、布オムツ、布パンツでの保育が流行っているそうです。
ですから、今日はちょっと専門的な話をします。
「汚れて大変なのになぜ布何ですか。」
という質問に対して、専門家の方がとても分かりやすく解説してくれた話を教えて頂いたので、共有したいと思います。人間は幼いほど「快」か「不快」かで行動します。これは本能です。
おしっこをすることは「快」
お股が濡れることは「不快」
洗ってすっきりしてもらえば「快」
快、不快を繰り返すうちに、当然「快」を感じようと心は働きます。
すると、何が起こるかというと
おしっこを我慢することをし始めます。
ほんのちょっと我慢をする度に、膀胱(ぼうこう)のタンクが大きくなり、おしっこを溜められるようになっていくのです。
それが、サラサラ感に優れた紙オムツ、紙パンツだとどうでしょう。
おしっこをしてもサラサラのままで「不快」ではないため、タンクが大きくなりません。
また、大人がやたらと「トイレ行く?」と声をかけて、トイレでおしっこが出来たことを褒めすぎると、子どもはおしっこに意識が行き過ぎて、頻尿になります。
遊びに夢中なときに頻繁におしっこはしません。
自然に任せるってことですね。
子どもは「種」です。
種は生まれたそのままで
実をつけ、花を咲かす能力を備えています。
育つものがちゃんと育つように環境を整えることが大事なんです!
でも、ついつい我々大人は教えてあげているつもりになってしまいます。
良い保育者は、素晴らしいことを教えることが出来る人ではありません。
子どもをよく観察し、その子が必要としている環境を適材適所に整えてあげる人、
つまり、子どもを理解している人です。
種は確かに、自分だけでは成長できません。
土や水などの環境を整えてあげる必要があります。
しかし、成長するのは種自身です。水をあげた人が直に種を成長させることはできません。
これは、私たちも一緒です。
他人から素晴らしい話を聞いても、それを自分の糧にするのは自分自身です。他人は機会を与えてくれますが、それによって自分が成長したかどうかは
自分次第です。
主体は自分。
ですから、相手に成長の材料を与えてあげることは出来ても、成長させていくのは相手自身です。
繰り返しになりますが、子どもに教えてあげているつもりにならないことです。
子どもを信じる。
いうのは簡単です。
これをトイレの話に戻しますと、極端にいえば、トイレトレーニングは、大人の都合に子どもを合わせるために行われるそれこそ(朝顔を夕方に咲かせようとするような)「トレーニング」なのです。
とは言っても、各自それぞれの事情がありますから、必ず布パンツでおしっこを垂れ流しなさい。とは言えませんし、私も保育園以外では紙パンツを使っています。
子どものために出来るだけ手間暇をかけてあげたい
けれど
大人の都合で、世の中の時間が流れていることが大半
子どもは自由に活き活きとして欲しい
けれど
世の中の枠に適応していって欲しい
この葛藤を感じない人はいないと思います。
子育てほど、難しいものはないからこそ、最高に面白いのかも知れません。
全て正解なことだけを教えられた子ども=幸せな子
ではないですよね。
「快」と「不快」
成功と失敗どれも必要なこと
正解のわからない問いを解き続けるって
最高の暇つぶしじゃないですか(笑)
それが、人生
それが、子育て
「子育ては生き物全ての永遠のテーマ」です。
また熱く語ってしまい、話がわけ分からないほどに大きくなってしまいました。
でもまぁ、大切なのは心。
どんな内容だろうと、その子を思ってしたことはあなたにとっても、その子にとっても全部◎だと思います!
愛があれば大丈夫!
(火を通せば大丈夫的な)
では、今日は子どもたちの成長を願い
愛を込めて☆☆
欠点のおかげで・・・ / 見えないことで見えるもの
こんにちは。しげです。
今日は本や体験を通してではなく、最近思っていたこと。
完全なつぶやきです。
私は視力が両眼でやっと0.7
(裸眼でギリギリ運転免許が通ります)
私の知っている古い知識では、近くのものや小さいものを見過ぎたり、暗い所でものを見ていたり、テレビやゲームをし過ぎたりすると視力が落ちます。
また、視力は人によって眼球の筋力などに差があり、同じように過ごしていても視力の落ち具合は人それぞれです。
病気やケガが原因で視力が落ちることもあると聞きます。
ですが、こんな話も聞いたことがあります。
見たくないものが多くて視力を失ってしまった。
今まで見えなかった人が、心から相手の顔がみたいと思ったら見えるようになった。
もっとも頑張ってくれた体の部分が痛みとしてサインをくれるように
病は気からというように
心と体は繋がっていて、体はいつも教えてくれています。
そう考えると、私の視力が落ちたことは何を意味するのでしょうか。
(単に、ゲームのし過ぎ、カッコつけて前髪を目にかけていたというのはもちろんですが笑)
中途半端な視力なので、眼鏡を掛けるときと掛けない時があります。
遠出をするとき
夜間に車の運転をするとき
気分を変えたいとき
イベント事があり、遠くまではっきりみたいとき
固い仕事をするとき
・・・
ダテ眼鏡でも掛けるときに自分を変えるスイッチとして使用していたこともありますが、今は眼鏡をかけたときの「おぉ~見える~」って感覚が嬉しくなります。
こんな感じで、
今まで見えなかったものが見える嬉しさを感じたり
視力が落ちて見えなくなっても、見えなかったら大して気にしなくて良くなったり
よく見えないからこそ、集中したり、その他の感覚を研ぎ澄ませたり
視力を落とした分、体のどこかが一層活性化したり(自覚はなしです)
そんないいことを得られているのじゃないかと考えました。
ものごとは表裏一体。
ようは考えようです。
あなたが欠点だと思っていることで
実は得していることは何ですか。
あなたが失ったことで
実は得られたものは何ですか。
発想の転回
では、今日も心を込めて☆