「教えない塾」吉田松陰と松下村塾
こんにちは!
今日はかの有名な
吉田松陰
と
松下村塾
についてのお話です。
超訳された本の言葉を借りながらまとめていきたいと思います。
覚悟の磨き方 超訳吉田松陰 (Sanctuary books) [ 吉田松陰 ]
吉田松陰は江戸時代、鎖国の真っただ中を生きた人で、開国をせまる黒船に乗り込み、外国から学び、後の明治維新に大きな影響を与えました。
当時、海外渡航は死刑でしたが、日本にとってなにが大事なのかを考えたら、そんなきまりは大したことではなかったようです。
たかが(この頃の江戸時代)250年の常識によって、このまま日本が沈んでしまうかもしれない状況に我慢ならなかった松陰は、今後の3000年の歴史にかかわると言って渡航を果たします。
そして牢獄に入り、そこで身分や出身に関係なく弟子を集め、仮釈放されたのちに「松下村塾」を始めます。
長州藩には、「鹿鳴館」という一流の藩校がありましたが、松陰の塾は弟子と一緒に校舎を作り、教科書を書き写した小さな塾でした。
しかも教えていた期間はわずか2年。
しかし、この2年で
品川弥二郎(内務大臣)
山縣有朋(3代、9代総理)
他、内務大臣6名、大学創設者1名
というとんでもない実績をつくりだしました。
吉田松陰を意中にしている人、研究をしている人が多いのも納得です。
いったいこれにはどんな秘密があるのでしょう。
松陰は
「いかに生きるかという志しさえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」
と信じていました。
「教える、ということはできませんが、ともに勉強しましょう。」
と話していたともいいます。
また
松陰は行動につながらない学問は無意味だと考えていました。
万全の準備をしてから行動するのではなく、いかに素早く一歩目を踏み出せるか。いかに気づき、改善できるかを重視していました。
なぜなら、実際に動く前にわかることなんてほとんどないことを知っていたからです。
なので、よく「失敗」しました。しかし、それで「順調」だと思っているのです。
そして
松陰は安心を望みませんでした。今の自分の居場所、肩書きや地位・・・様々なしがらみに執着せず、「本質」と「枝葉」を明確にし、余計なものを削ぎ落とすことで自らの志、情熱を燃やし続けました。
誰かが・・・ではなく自らが先頭に立つ。その熱意が松陰の死後も受け継がれて、時代を動かす原動力になったとも言えます。
最後に
松陰は、時代の影響もありますが、常に死を意識していたと思われます。
死刑だと分かっていながら海外へ行ったこと。本来ならば死ぬまで出られない牢獄で学び、教え続けたこと。世の中をよくするためと信じて暗殺計画を練っていたこと。
「命とは与えられた時間」
だと言われることがあります。
だとすると、間違いなく寿命の短かった昔の人々と今の人々とは生に対する意識が違います。そして、特に松陰は濃密な時間を送っていたことでしょう。
彼の享年は30歳でした。
暗殺用の武器を求めて再び牢獄に入れられたりと、危機感からか次第に松陰の発言も過激になり、最期は別件で訪ねてきた役人に、自ら「暗殺計画」を暴露し「安政の大獄」の犠牲者となります。
特別な時代に生きた人なので生き様や思想は強烈ですが、教えない教育者としての吉田松陰は、教育に携わる人や親など、現代の様々な方への教訓になるものがあると思います。
今日も心をこめて☆