もの忘れがひどい人は○○だから
こんにちは!
最近もの忘れがひどくて…
という若い方、結構いるんじゃないでしょうか?
私も最近(というかいつも)忘れることばかりで、家族からは呆れられちゃっています(笑)
でもね、
忘れるっていうのはちゃんとした脳の機能
ですから
もの忘れが多いってことには病気以外にも理由があるわけです。
それは、
忙しいから
なんですって!つまり、全部覚えてたら疲れちゃうので脳が気を利かせて「お疲れ様、休もうね」って忘れさせてくれているんです。
な~るほど!
私はいつも忙しくしてるかも?
忙しくはないけれど、気にかけていることがあったり、考え事をしてるかも?
妄想が止まらなくて…
など、心当たりがあるんじゃないでしょうか?
忘れることは正常なこと、自然なこと。
だから、一生懸命繰り返したり、インパクトを持たせて記憶したりするんですよね!
あと、
随分前に思い出せなかったことや
忘れていたことを
突然思い出すことがありますよね?
これもまさしく、ずっと脳が働いている証拠だそうです。
自分の健在意識の中ではすっかり忘れていることでも、忘れているだけであって、潜在意識の中では
「あれなんだったっけ?」
という記憶がずっと残っているんです。
時間を有効に使おうとして、
ながら家事
歩きスマホ
空き時間にネットサーフィン
ついついやってしまうんですよね~
「教えない塾」吉田松陰と松下村塾
こんにちは!
今日はかの有名な
吉田松陰
と
松下村塾
についてのお話です。
超訳された本の言葉を借りながらまとめていきたいと思います。
覚悟の磨き方 超訳吉田松陰 (Sanctuary books) [ 吉田松陰 ]
吉田松陰は江戸時代、鎖国の真っただ中を生きた人で、開国をせまる黒船に乗り込み、外国から学び、後の明治維新に大きな影響を与えました。
当時、海外渡航は死刑でしたが、日本にとってなにが大事なのかを考えたら、そんなきまりは大したことではなかったようです。
たかが(この頃の江戸時代)250年の常識によって、このまま日本が沈んでしまうかもしれない状況に我慢ならなかった松陰は、今後の3000年の歴史にかかわると言って渡航を果たします。
そして牢獄に入り、そこで身分や出身に関係なく弟子を集め、仮釈放されたのちに「松下村塾」を始めます。
長州藩には、「鹿鳴館」という一流の藩校がありましたが、松陰の塾は弟子と一緒に校舎を作り、教科書を書き写した小さな塾でした。
しかも教えていた期間はわずか2年。
しかし、この2年で
品川弥二郎(内務大臣)
山縣有朋(3代、9代総理)
他、内務大臣6名、大学創設者1名
というとんでもない実績をつくりだしました。
吉田松陰を意中にしている人、研究をしている人が多いのも納得です。
いったいこれにはどんな秘密があるのでしょう。
松陰は
「いかに生きるかという志しさえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」
と信じていました。
「教える、ということはできませんが、ともに勉強しましょう。」
と話していたともいいます。
また
松陰は行動につながらない学問は無意味だと考えていました。
万全の準備をしてから行動するのではなく、いかに素早く一歩目を踏み出せるか。いかに気づき、改善できるかを重視していました。
なぜなら、実際に動く前にわかることなんてほとんどないことを知っていたからです。
なので、よく「失敗」しました。しかし、それで「順調」だと思っているのです。
そして
松陰は安心を望みませんでした。今の自分の居場所、肩書きや地位・・・様々なしがらみに執着せず、「本質」と「枝葉」を明確にし、余計なものを削ぎ落とすことで自らの志、情熱を燃やし続けました。
誰かが・・・ではなく自らが先頭に立つ。その熱意が松陰の死後も受け継がれて、時代を動かす原動力になったとも言えます。
最後に
松陰は、時代の影響もありますが、常に死を意識していたと思われます。
死刑だと分かっていながら海外へ行ったこと。本来ならば死ぬまで出られない牢獄で学び、教え続けたこと。世の中をよくするためと信じて暗殺計画を練っていたこと。
「命とは与えられた時間」
だと言われることがあります。
だとすると、間違いなく寿命の短かった昔の人々と今の人々とは生に対する意識が違います。そして、特に松陰は濃密な時間を送っていたことでしょう。
彼の享年は30歳でした。
暗殺用の武器を求めて再び牢獄に入れられたりと、危機感からか次第に松陰の発言も過激になり、最期は別件で訪ねてきた役人に、自ら「暗殺計画」を暴露し「安政の大獄」の犠牲者となります。
特別な時代に生きた人なので生き様や思想は強烈ですが、教えない教育者としての吉田松陰は、教育に携わる人や親など、現代の様々な方への教訓になるものがあると思います。
今日も心をこめて☆
イチロー引退会見その②
こんにちは!
イチローの引退会見について、前回の続きになります。
前回の記事はこちら↓
ymsst.hatenablog.com
質問
「最低50歳まで現役ということを言っていたが・・・」
イチロー
結果として有言不実行になってしまったが、その当時は本気でそう思っていた。
また、この表現をしていなかったら、ここまでこれなかった。
(目標を)言葉にすることは、難しいかもしれないが、表現することは目標に近づく一つの方法だと思っている。
質問
「イチロー選手の生き様で伝えたいことは?」
イチロー
生き様というのはよくわからない。生き方と考えれば・・・
人より頑張ることはとてもできない。あくまで秤は自分にある。
少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけない。一気に高みに行こうとしてもギャップがありすぎて続けられない。
自分がやると決めたことをを信じてやり続けるしかない。でも、それが正解とは限らないんですよね。
例えそれが後退や間違ったこと、遠回りだったとしても、遠回りでしか辿り着けないこともある。
最後の質問
「以前、常に孤独と戦っていると話していたが、現在の心境はどうか?」
イチロー
今は孤独という気持ちは全くない。(途中の質疑応答の中で、一人のプロ選手として、チームが勝ってよし!だけではなく自分が結果を出すことも必要…
しかし、だんだん変わっていき、人に喜んでもらうことが一番の喜びになった。ファンがいなければモチベーションをつくれなくなった。)
と答え、続けて
答えとしては少し違うが
日本を離れて
「外国人」になったこと。
この体験で人の心を思いばかったり、人の痛みを想像するようになった。本を読んだり、情報を集めることはいくらでもできるけど、実際に体験しないと味わえないものがある。
辛いことやしんどいことから逃げたくなるのは当然だけど、(特に、若くてエネルギーのあるうちに)そこに立ち向かって行くことは、人としてすごく重要なことだと思う。
いや~最後締まったね~
お腹すいたから終わりにしよう!
みたいな感じで会見が終わりました。
本当にそうだなと思います。
お腹が空いたらなにもできない
じゃなくて
体験することでしか得られないものばかり
だと改めて思いました。最大の失敗は行動しないこと
なんて言葉があるように、あらゆる経験は自分の財産になります。
イチロー選手の場合、野球というジャンルで最も色々な挑戦や経験を積んできたのかもしれません。
イチローが野球を通して培ってきたものは野球の現役選手以外でも通ずるものが沢山あり、今後の活躍は疑う余地がありません。
同じように、私達一人一人が培ってきたものも、人生おいての糧であって、この先どんな仕事をしようが、どんな人と付き合おうが、名前や環境を変えようが、経験はゼロにはなりません。
そして、これからはじめるどんな一歩でも、確実に経験値として自分の糧になります。
先日、70代のめっちゃ元気なおばあさんとお話ししたのですが、
「なんでもやってみるものよ。やってみれば案外なんとでもなるもの。それに、この歳になっても知らないことに触れることは楽しいんだもの。若い人はどんどん新しいことをやらなくちゃ!」
という言葉が蘇ってきました。
一つ一つの積み重ね
世界一の野球選手が唯一誇れるものは、数々の記録や、数字ではなく、試合に出られないと分かっていながらもトレーニングをやり続けたなんの記録にも残らない日々でした。
そのギフトが今日という日。
野球界の制度についての是非を言うのでもなく、米国の野球と日本の野球に優劣をつけるのでもなく、自分を成功者と言うでもなく、
空腹の限界までとことん質問に答え続けたイチロー。
イチロー選手は私達に伝えようと言葉を選んでいましたし、私達はそれ以上にイチロー選手の言葉から何かを得ようとしていた会見でした。
まだまだ質疑応答で考えさせられるところは沢山あります。
消されないうちに、一回はフルで聞いてみては如何でしょう?
話し口調や表情から伝わるイチローの人柄もありますし、自分なりに得るものがあると思います。
今日も心を込めて☆