コーチングってなに?
こんにちは。
前回の発達障害プチ体験ワークに引き続き、コーチング教会の主催するランチ会に参加してきました。
前回の内容はこちらです。
もちろん私は教育に関心のあるただのモノ好きですので、めっちゃ場違いでしたが、一応知り合いのコーチ、カウンセラーさんに声をかけて頂いたので参加することにしました。
そもそも「コーチング」って何かというと
学生さんが重宝するウィキペディアでは
カウンセリング ・・・治療
コンサルティング・・・解決策の提示
コーチング ・・・支援
っていうざっくりとした分類がありました。
でも、分類は曖昧だし結局よくわかりません。
教育研修コーチング教会理事長のドクターフキコさんの言葉をかりると
「すべてを肯定的に捉えて成長を加速させる『応援コーチング』」
「幸せを運んでくれる馬車(コーチ)」
「クライアントが望まなければ、何も言えないし変化も起きない」
などと表現されています。
目に見えないものだからこそ、わからない、怪しいなどと感じる人もいるかもしれません。
でも、目に見えないものだからこそ、心にずっと残る価値あるものとも言えます。
人の幸せを願って様々なコーチがいて、そのコーチによって救われる人がコーチの数以上にいて、救われた人の中からコーチが生まれて・・・
ここには自分が支えてもらったことを還元していくサイクルがあり、参加しているだけで自分も勇氣づけられました。
あと、
講演の内容
もおすそ分けしますね!
なんでもポジティブに捉えるのが善いとされているが、ネガティブから入っていき「どうしたら回避できるか」と解決策を考えていく方が合っている防衛的悲観主義者という考えもある。これは最近の研究でわかってきたことらしい。
自分を構成している要素として
遺伝的要素は50%を占める
環境的要素は意外と少なく10%
残りの40%は自発的にコントロールできる要因
だそうです。
遺伝的要素が最悪で幸せ0%なんて人はいませんので、自発的要因の40%次第で人はいくらでも変わります。
結局は自分で自分をつくっている。だから
自分で自分をコントロールできることが幸せである。
食べる食べないしか自分で決定することができないからなんだそうです。
とっても真面目ないい子が、周りに言われるがまま一生懸命頑張った結果、「食べない」という選択くらいしか自分で自分をコントロールする選択肢がなくなってしまう。
話は飛びますが、このフキコさんのお子さんはADHDなんだそうです。
だからといって親がどうこうするのではなく、
「彼の人生は彼のもの」と言い聞かせて、心配はするけど、自分で意思決定をさせて、あまり手をかけなかったのだとおっしゃっていました。
もちろん、大変な苦労をされたんだと思いますが、「手をかけなかった」と言える親ってかっこいいですよね!
(全然話が飛んでなく繋がっていました。次こそ飛びます!)
やる気を引き出す方法の話
もありました。
子どもが100点満点のテストで25点だったとき、「次は27点を目指そう」と2点アップを喜べますか?せめて平均点くらいは・・・と一段、二段飛ばしを期待しませんか?
大きな成果は小さな成果の積み重ねです。だから、自分にあったちょうどよい小さな目標を立てられることが大切なんです。
そして、自分では難しかったら人に頼む。
自分で頼むことも「自分で自分をコントロールする」ことの一環です。
まだまだ学んだことはたくさんありますが、うまく書けないのでこの辺でおしまいにします<(_ _)>
私が学んだことをシェアして、誰かの役に立てれば私はとても嬉しいし、
今後、このランチ会で繋がった方の力を借りることができると思うと心強いです。
場違いだったけど行って良かった。
余談ですが
「凶」は〆(締め、おわり)が囲まれている漢字です。
終わりにして進むのをやめた状態を「凶」と書きます。
今日(凶)のままをずっと過ごしていては明日(明るい日)にはなりません。
小さな一歩を踏みだし続けることが大事で
そのプロセス自体を楽しむことが生きるってことなんです。
そうしたら「芽」が伸びて花が咲きますよね。
結果はどうあれ、ランチ会に行ったこと自体で既に〇でした。
問題の多い私の日常も楽しんでおります。
今日も心を込めて☆
発達障害プチ体験ワークin新潟
こんにちは。
先日、発達障害プチ体験ワークに参加してきました。
発達障害のお子さんを育てながらの体験を元にブログを書き、日々悩んでいる全国の親御さんたちと交流しているKねぇさんが、わざわざ県外から新潟の地へ訪れてくれました。
せっかくの機会なのに、出発直前に車のカギを無くしてしまい大遅刻するというヘマをしてしまいましたが、とってもいい経験をさせていただきました!
現在、NHKでは発達障害をテーマにするキャンペーン期間らしく、私もいくつか事前にみたので、なんとなくの知識はありました。
しかし、実際に体験してみると、やっぱり感じるものがあります。
例えば会話
言葉で伝えることができず、「ほにゃらら」としか言えないというワークをしました。
どんなに頑張っても伝わらない。
どんなに頑張っても伝えたい感情がのらない。
あきらめたくなってくる。。。
聞いている方も
意味がわからないので、真剣に聞き続けられない。
ついにおかしくなって笑ってしまう。
これが、常だと思うとゾッとしました。
他にも色々ワークをしましたが、複数人でやるからこそ体験が深まるように感じました。
お話会の中では、これからの我が子に対する不安だったり、今まであったエピソードだったり、ときには目が潤むような話もありましたが、Kさんはとにかく口調が明るい!
我が子を愛している。それでいて信じてるっていうのが凄い伝わってきます。
発達障害だから親が先回りして子どもを弱い存在にしておくのではなく、成長を願って、自立(自分で自分の行動を決める)を促して共にたくましく生きている姿が、話から見てとれ、私たちは勇氣をもらいました。
あと、覚えている範囲で学んだ知識を少し紹介しますと
「スイッチング」という視点
目の前のもの(目的)を取り上げられるとどうしていいか分からずパニックになる。
だから、「あれ何?」などと別のもの(目的)を与えてあげると目の前への執着が薄れる。割とスムーズに切り替えができる。
何を見ているかよく観察する
「目は脳の窓」といわれるように、言葉が通じなくても相手が何を見ているかをよく見ることで理解に近づける。
子どもが一人遊びしているうちに別のことをしよう!ってなるところを、たまにはよく観察して、我が子の興味(電車を繋げるのが好きとか)の中で一つでも一緒に楽しめることができると本人もとても嬉しいですよね。
どうしても欠けているところが気になりがち
私たちは欠けているところを埋めてあげたくなりがち、みんな一緒がいいって思いがちな思考がある。そんな優しい心はもちろん素敵!だけど、執着しすぎない。相手が本当に望んでいるか、そもそも無理なことを押しつけてないかを少しだけ考えてみよう。
平等ってなんだろう
いろんな種類の動物たちに、同じ木登りテストをすることが平等?
子どもにも大人にも、同じ踏み台を与えて外の景色を見せることが平等?
参加して思ったことは、保育との共通点が多いなと感じました。
言葉が通じない子どもの意思を一生懸命くみ取ろうとする。
結局子育ては同じなんだと思います。
子どもだから、発達障害だからと変な色眼鏡で見るのではなく、
できないことをフォローするっていう普通のことをやり
この子の成長を信じる。
もっと言えば、人とのコミュニケーション全てに通ずることですね。
今は発達障害の認知が広がりつつありいいことだと思いますが、過敏にならず、普通に仲間の一人として接していけばいいんじゃないかと思います。
学校でも特別支援学級に通う子に対して優しく接する子は、きっと自然な気持ちで関わっているのではないでしょうか。
障害や、できないことを馬鹿にする子がいたら、その子に声をかければいいのであって、弱い立場の人を隔離したり余計にかくまったりする必要はないですよね。
そんな感じで誰もが普通に支え合って生きていけたらいいと思いました。
誰もが完ぺきじゃない!
だから、助けてもらうことは当たり前。
「世間に迷惑をかけないように」
じゃなくて
「困ったら助けてって言えるように」
そして
「困っている人がいたらその人の気持ちをよく聞いて
助け合おうね」
って子どもに伝えていきたいです。
今回、一生懸命イベントを企画してくださった主催者の方のブログを貼っておきます。
こちらにも詳しく書かれていました。
こばねぇ(小林幸根さん)はやっぱりすごかった!「発達障害プチ体感グループワークin新潟」感想 - ライフサポートウェルビーイングの日記
保健師さんってあまり馴染みがないかもしれませんが、素晴らしいお仕事だと思います!
では、
今日も心を込めて☆
私は病気なのか
こんにちは。
最近考えます。私は病気なのか。
どこまでが病気で、いつ病気で、いつは病気じゃないのか。
そんなことを思いのままに綴っていこうと思います。
いつも大体考えてから書いていくので、今回は読みづらいかもしれません<(_ _)>
医者の診断がついているという点では、病気であり、今もずっと病気であると言えます。
でも、医者に診断してもらう前も症状があったわけで、病気でした。
いつになるかは分かりませんが、症状がなくなっても
医者に診断してもらわないとずっと病気です。
でも、診断されるときには病気は治っているから診断がおります。
詳しくいえば、この手の病気は症状がおさまって穏やかなことを指す「寛解」(かんかい)という表現を使います。
癌や白血病などにもこのような言葉が使われます。
目に見えてわかること、物理的にわかること、
目に見えないけどわかること、
「わかる」とはわかる範囲でわかること
わからない分野はわからない
もっと言えば、わからない分野は存在していない
医者はあくまで、現時点でのわかる範囲で専門科としての診断をしているだけ
「薬で病気は治せない」
「医者が病気を治すのではない」
最初に医者から言われた言葉です。
薬は症状に対処する
医者は患者に対処する
わたしはわたしが癒していく
でも、
頭痛がして嬉しい。
心おきなく休めると思う時もあるし、
動きたくないときがあると「病気だから」と言い訳できて有難い。
熱がでなく、声もかれない風邪って辛いですよね(笑)
治る自信がないっていう点も正直ある。
だからといって
「病気なんだから大人しくしてな」って言われるのはムッとする。
別に普段の思考や行動は病気と関係ない!と思っている。
休んでいるってことは、誰かに支えてもらっているからこそできることであって、どうしても申し訳なさというか、ずっとこのままじゃダメなんだとも思う。
どこかでそう感じていることで、ちゃんと今を休めていないのかもしれない。
そもそも治らなくたって、病気とつき合いながら仕事をしたり、社会復帰していく方法もある。
決めつけなければ、道はいくらでもあり、考え方はいくらでもあり、正解はいくらでもある(不正解はない)
だけど、世間一般の常識というか、(勝手に思い込んでる)周りの目とか、支えてくれている周りの期待(これも思いこみ)に応えようと思うと、完全復帰で元通りな生活だけに視野が狭まってしまう。
自分を大切にしてないから病気になったのに、結局周りのことばかりに目を向けて治ろうとするのはなんかズレてるよね。
わたしはわたしが癒していく
ワガママをいう。これが私の気持ちだよって我がままをいう。
我がままだからこそ、子どもはキラキラ輝いている。
でも子どもの扱いは大変。。。
私の扱いも面倒臭い。。。
今日は心のままに☆